勝つべくして勝った桶狭間の戦い【織田信長】

桶狭間の戦いといえば、織田信長が奇襲で勝ったと言われてきました。現在は正面から戦って勝ったという説もあります。ここではあえて、「勝つべくして勝った桶狭間」と言います。つまり信長が勝ち戦にもっていったのです。

 

ではどのようにして勝ったのでしょうか?

結論から言うと「待ち伏せ作戦」です。信長は元々桶狭間で戦う作戦を立てていました。それだと今川義元桶狭間を通らなかったらどうするのだ!という声が聞こえてきそうです。もちろん待ち伏せ場所は他にもありました。他の場所も場所も2〜3ヶ所考えて対応策を練っていたはずです。そうでなければ籠城していたでしょう。実際に家臣の大半は籠城を進言しています。しかし、籠城したのでは結果が見えていました。「援軍なき籠城は敗北」となります。

信長は、「守っては勝てない。尾張の中に入るまでに勝負を決める。だから前に出て勝つ!」と最初から考えていたはずです。

 

ここからは信長がなぜそうしたかを考えていきましょう。

織田信長vs今川義元尾張三河地域の戦いで一進一退の攻防を繰り返していました。斎藤や今川の反信長派に囲まれた信長は起死回生の場面を待っていたのです。そこに絶好のチャンスがやってきました。今川義元の上洛です。戦国大名の中でも特別な存在だった今川義元は、こしに乗ることが許されていました。権威の象徴であるこしの使用を当然今川義元は行います。これは非常に目立つ行為です。忍を多く配置していたであろう信長は、その情報を早々に知っていました。もちろん2万数千からなる兵隊数もです。こしと軍勢、共に目立つ今川義元の動きは信長にかなりの正確性で伝えられていたはずです。そして、予想される2〜3ルートの中から桶狭間ルートが選ばれます。

 

【5月19日】

今川軍が丸根砦・鷲津砦に攻撃したことが信長が待っていたチャンスのときでした。理由はこの攻撃は今川軍が分散した証拠だったからです。しかも残りの1万数千も軍勢配置が縦長になっていることも明白でした。これは地形上、そうなるしかないのです。あとは前が崩れれば総崩れになっていきます。今川義元よりも後方にいた軍勢は数のうちに入りません。そうなるとそこからは正面での勝負です。おそらく雨も味方したのでしょう。今川軍は想像より簡単に崩れて、信長は義元のところまでいきます。このようにしてまるで奇襲したかのように信長は勝利するのです。

 

まさに的確な準備のもと手に入れた勝利でした。信長の準備の良さは朝倉攻めの際に、浅井の裏切りの前に逃走したことでもわかります。そんな信長でも本能寺の変は予想できませんでした。彼は実力と少しの運で強敵今川義元を倒したのです。